エリザベス・キュブラー・ロス著「死ぬ瞬間」読書感想
【はじめに】
新聞で、終末期医療について小さな記事が掲載されていた。以下、記事より。
医師が、患者(30代の末期がん患者)とその家族に「厳しい状況」を説明する。
本人・家族は、その言葉を飲み込まざるをえない。患者に対する医師の絶対的立場は揺るぎないものがある。さらに進行した後、医師は突然、「これからどうするか」を家族で話し合うよう言い渡し、状況把握が十分でなかった家族を混乱させた。
ある医療関係者は、治療の見込みがない患者や家族にきちんと向き合える医師は多くないと語った。診断し治療するための医学教育では、死に臨む人に対応する力を養うのは難しいのだろう。そんな話を聴くうち、終末期患者ケアの先駆者的存在が頭に浮かんだ。世界的ベストセラー「死ぬ瞬間」の著者で、精神科医のE・キュブラー・ロスだ。
1960年代、米国の病院で彼女が見たのは、放置状態の終末期患者で、医師は死について語ろうとしなかった。ロスは、患者の尊厳を守り生の意義を学ぶため、死に瀕した人々を招いて講義を行い、衝撃を与えた。
死を覆い隠そうとする医療文化はまだ分厚いが、人は誰もが終末期を生きざるを得ない。社会全体で死との接し方を考える必要がある。
以上、この記事を読み、私も終末期医療にかかわったことが何回かあるため、どういう立ち位置・立場・対応をすればいいのか、ほとんど判らないまま、利用者さんと関わってきたこともあり、今一度、きちんと理解して対処できる能力を身につけたいと思い、ページをめくることにした。本について少し調べてみると、「否認・受容・希望」が書かれているとのこと。樺沢紫苑著「感情コントロール術」にも、「否認→取引・受容→感謝」が書かれていたことを思い出した。またYoutube樺ちゃんねる生配信でも、樺沢先生が、「キュブラー・ロスが言っていたね」と著者の名前を口にしていたのを耳にして、これは、早速読まねばならないと思った。樺沢氏の感情コントロール術では、さらにわかりやすく書かれているので、抜粋し青文字で掲載することとする。
【延命と告知】
ますます機械化され、個人の人格を無視した医療は、実は「治療する側」の防衛メカニズムなのではないだろうかとキュブラー・ロスは言う。機械や血圧に集中するのは、差し迫った死を認めまいとする私たち(医療従事者)の必死の試みではなかろうか。医療は、苦痛を和らげるより延命に力を注ぐ、個人を無視した新しい科学になってしまったのだろうか。私たちは個々の人間に立ち返り、一から出直して、自分自身の死について考え、むやみに恐れることなく、悲しいが避けることのできないこの出来事を直視する術を学ばねばならないだろう。
人間社会は、人間同士のふれあいがあって初めて偉大な社会が成立している。そこから切り離された「延命措置をした患者」から医師が非難と怒りを感じることがある。この解決法は、医療側が患者の要求に気を配り、患者と率直に話し合うこと。余命を数字で示すのではなく、時間と体力があるうちに、身の回りの整理をしておいた方がよいなど、患者が希望を持ち続けられるよう話す。病気の告知は、「共感しつつ、希望があること」を伝える。そうすれば、患者は自信を取り戻せ、医師を信頼し、危機的状況に対処するために起こる様々な反応を、余裕をもってしのいでいくことができる。
【否認】
「われわれは、太陽をずっと見続けていることが同じように、ずっと死を直視していることもできない。」否認のときは、Dr.ショッピングなどに、たっぷり時間をかける場合が多い。否認は、不快で苦痛に満ちた状況に対処する健康的な対処法。時間が経つにつれ、別のもっと穏やかな自己防衛反応を使うようになる。患者には、希望(その段階で出来る治療を精一杯やる)を与えつつ、部分的受容が進むのを待ってあげましょう。否認は、一時的なショック状態。必ず患者は、そこから次第に回復していくのです。そのとき傍らにいる人は、患者が迫りくる死に対する不安と恐怖を克服するのを、粘り強く愛情をもって助けるという役目を果たすことが大切です。患者は、「そんなはずはない」と死を直視しながらも、まだ生への望みを持ち続けているので、孤立させないよう「訪問」を繰り返して信頼感を芽生えるよう関わることが大切です。
以下、樺沢紫苑著「感情コントロール術」より抜粋。
【否認】否認は、非常に基本的な心の防衛システムであり、すべての人に共通した心の動きです。 受容できるまでは、最低でも3ヵ月~6ヵ月はかかります。 それまでは、さりげなく情報提供してあげて、辛抱強く「待つ」ということをしてあげましょう。 「焦らないで待つ」ことも、非常に治療的な関わりなのです。
大脳皮質の前頭前野によってコントロールされる理性的判断を行う認知機能システムを「思考制御」と呼びます。 一方で、恐怖や不安がともなう緊急事態に直面したときに反射的に発動する感情システムを「情動反射」(扁桃体の興奮)と呼びます。
病気の告知などで「医者が信用できない、この医者は間違っている」という考えは、感情が暴走している状態なのです。
これは病気の診療に限らず、不安や恐怖にかられたときに共通して起きる、すべての人間に共通する反応です。 「避けたい、逃げたい」と思った時は、安全な所へ逃げて、前頭前野を働かせて「ちょっと待てよ」と考え直してみましょう。
「様子をみましょう」は「重症ではありません。薬を使わなくても自然に治ると予想されるので、経過を観察します」という意味です。
病気を治すために最も重要なのは、病気を受け入れることです。 そして「不安」に直面して、圧倒的な孤独に中で、誰か寄り添ってくれる人、家族がいる。 ただそれだけで、大きな救いになるのです。
家族や医療スタッフ、「何もできない。何もしていないようで、実はそうではないのです。」 無言でもいいから、患者さんにそばにいることがとても重要です。 寄り添ってくれる人がいるだけで、患者さんは「孤独」ではない。 孤独は最大の「苦痛」ですから、寄り添うことは、患者さんにとっての最大の「救い」になるのです。 そして患者さんに希望を持たせながら関わっていくと、患者さんは、「不安」が減り、病気を受け入れ、感謝しながら生きることが出来、幸せを感じるようになるのです。
家族・医療・介護のチームで、希望や幸せを感じながら生きていけるようサポートしていきましょう。
【孤独】人は極度のショックを受けたり、激しく落ち込んだ状態に陥ると、人と会ったり、話したりする余裕がなくなってしまいます。 心を閉ざし、心に壁を築いて、その安全な場所で1人になり、ひっそりと心を休めたい心境になるのです。 「なぜ自分だけ、こんな目にあうのだろう?」 という思い。 「こんなにつらい気持ちは、他の人に理解できるはずがない」という孤立感。 強いショックや精神的苦痛を受けると、人は心を閉ざしてしまうものです。 「他人に迷惑をかけたくない」そんな心を閉ざした状態が「孤独」です。
孤独がもたらす影響は深刻で、慢性的な孤独感は、人を不安定にさせ、他社に対する被害感を抱かせ、自虐的・自滅的な思考や行動に陥らせる。 さらに孤独は、身体にも大きな影響を与える。 孤独な人は脳血管や循環器や胃腸の疾患などで死ぬリスクが高まる。
「孤独」の状態にあると、医者からの相談、支援、医療の申し出を執拗に拒否し、断ろうとします。 こうした言動の根幹には、「孤独」の心理があり、「否認のステージ」にあるということです。 つまり、心の底では「自分が病気である」と認めたくないのです。 したがって、「否認」を解くことが、拒否反応を緩和する対処法となります。
【怒り】
第一段階の「否認」を維持することが出来なくなると、怒り・激情・妬み・憤慨といった感情が、それに取って代わる。 怒りを抱えている患者は、どこを見ても不満を感じる。 元気そうな人、楽しそうな人を見ると苛立つ。 不平を言い、注目を引こうとし、気にかけてもらえると時期に声をやわらげ、怒って何かを要求することも少なくなる。 そのときは、患者の怒りが理解できるものであろうと、不合理なものであろうと、私たちがそれを容認していくことが大切。 「苦しいんですね」と共感し、怒りを表に出させてあげることで、他の人との違いを保ちながら、愛され、受け入れられるようになれる。
【取引】
何とか命を長らえようとすること。
少しでも命を延ばしてもらえるのならと、寺・教会に奉仕する人もいる。 宗教心がなかったからと、罪悪感を感じる人も多いが、そうしたものから解放されるために、とことん話し合いを続けることが大切。
【抑うつ】
①反応的な抑うつ:治療と入院に莫大な費用がかかり、夢(幸せな家庭生活・職を失う)を断念せざるを得なくなる。無気力さや冷静さ、苦悩や怒りはすぐに大きな喪失感に取ってかわられる。この場合は、出来ることを褒めて励ませば良い。
②準備的な抑うつ:死期の近い患者には、この世との永遠の別れのために、心の準備をしなくてはならないという深い苦悩がある。この場合は、「悲しむな」とは言わずに、そばにいるだけでいい。①とは違い、元気づけない。患者が死を受け入れて安らかに旅立っていくためには、「準備的な抑うつ」は必要なのであり、患者のためになるのだということをみんなわかっていなければならない。激しい苦悩と不安を乗り越えてきた患者だけが、この段階に到達できるのだ。患者の絶望は、病気に対する絶望だけではなく、希望を与えてくれない医療従事者や、家族に自分の人生観や関心を理解してもらえないことに絶望することが多い。重要な対話を誰かとすれば、心に安らぎが生まれていたであろう。
【受容】
受容に入ると、眠りたくなる。 最後の時へと近づく眠りである。 受容とは、感情がほとんど欠落した状態である。 この時期は、患者自身よりも家族に、多くの助けと理解と支えが必要になる。 患者は、そっとしてほしい、そばにいてくれるだけでいいと思っている。 「やかましく」いろいろな言葉をかけるよりも、患者の手を握ったり、見つめたり、背中に枕を当ててやるほうが多くを語ることもある。 死に瀕した人間が安らぎを見い出して、一人で死に立ち向かう準備をしているしるし。 しかし、死を目前にしても、患者は治るという一縷(いちる)の望みを抱いている。 家族が、目前に迫った患者の死を受け入れ、その思いを患者と共有することが大切。 患者たちは、黙って話を聞いてくれる人がそばにいて、怒りを吐き出し、行く末の悲しみに泣き、恐怖や幻想を語るように促されると、すんなりと死を受容するものである。 「きっと良くなる」という気休めではなく、患者の望みを聞くこと、患者の気持ちをわかろうとすることが大切。
「最後まで尊厳をもって生きたい」受容の時期は、何も求められず、欲するもの全てが与えられた時期。 つまり、人生の初めの時期、乳児期に立ち返るのである。 家族にとっての一番の支えは、できる限りの手を尽くそうと言って励ましてくれる医師、患者とその家族をできるだけ多く訪問し、家族をそれまで支えてきた精神的よりどころを活かしてくれる聖職者の存在である。
以下、樺沢紫苑著「感情コントロール術」より抜粋。
【受容】「信頼」「情報」「時間」この3つによって、病気に対する不安や恐怖は、次第に和らいでいきます。 少なくとも、告知直後の強烈なショックと比べると、多少時間が経ち、信頼関係もつくられ、質問したりしながら情報が増えてくることで、はるかに冷静に自分の病気について考えられるようになっていきます。 病気を受け入れる、受け止める。 これが、病気の「受容」です。 否認とは、病気と闘っている状態。 受容とは、病気と闘うのをやめた状態です。 受容の状態では、不安は安心に、緊張はリラックスに変わり、心が安らかになります。 否認によって引き起こされる「怒り」「焦燥」「反抗心」「敵愾心」が嘘のように浄化され消えていきます。 「憑き物がとれたような」と表現されることもあります。 病気を治すために最も重要なのは、病気を受け入れることです。 病気を敵ととらえ、病院からも治療からも逃げ回っている患者さんが、病気を治せるでしょうか? 治せません。 まずは、「自分は病気である」という事実を真正面から受け止め、冷静に考えられるようになることです。 そうなれたら病気を「受容した」と言え、病気を治す準備状態となるのです。 病気の受容を進めるためにも、家族が同席して、孤独を脱した状態で患者さんが病院受診することを、お勧めします。
【希望】
患者は一縷の望みにかけること、一縷の可能性をあきらめていない。この苦しみには「何らかの意味があるに違いない、もうあと少し耐えることができれば、最後にはきっと報われる」これを支えにしている。現実否認の一つの形なのだ。受容の段階に達して、希望を捨てたときには、死がそこに迫ってきている。そこにおいても、可能な限り最も有効な治療を受けるチャンスを与えなければならない。治療をあきらめることがあってはならない。決して匙をなげたりしてはならないのです。希望を与え、もう一度よくなろうとする気概をもたせる。治療者側は「私の知識のおよぶ限り、なしうることはすべてやったつもりです。でも今後も、あなたが出来る限り楽に過ごせるよう努力を続けます」と話すと、患者は見放された、見捨てられたと思うことはないのです。
患者とその家族が、避けられない現実を共に受容することができるように支え、手助けする。そうすれば必要のない苦しみまで味わわなくて済むのです。
【おわりに】
病気の告知によるショック→否認(まさかそんなはずはない)→取引→怒り・妬み→抑うつ(孤立・絶望)、家族も悲しみに暮れ無力感・絶望・自暴自棄になる→受容・虚脱→希望。
死に直面する人は、ほとんど上に書いたようなステップを踏む。大きな病気を患う場合も同じ過程を踏むのかもしれない。患者は、死について語りたい日もあれば、楽しい側面だけ語りたいという日もある。でも患者の支え(拠り所)は、何か質問され、語ることにあるのです。
「困っていることはないですか?」と語りかけ、耳を傾けるだけで良いのかもしれません。